自己憐憫とは?心理学・聖書・文学から読み解く苦しみの正体と癒しへの道

「自己憐憫とは何か」「どうすれば抜け出せるのか」と感じたことはありませんか?

自己憐憫は、自分の苦しみに同情し続けることで生まれる心の悪循環
被害者意識や怒り、孤独とつながり、気づかないうちに人間関係にも影響を与えます。

この記事では、心理学・文学・スピリチュアルの視点から、
自己憐憫の正体とその背景、そして癒しと回復への道を丁寧に解説します。

記事の最後では、自己憐憫をテーマにしたオリジナル楽曲を通して、心の深い部分にそっと触れていきます。
感情に振り回される日々から抜け出したいあなたへ――。

KEI

この記事が小さな光の種となりますように。

Contents

1. 自己憐憫とは何か?

自己憐憫という言葉にはどこかネガティブな響きがあります。

しかし、それは誰もが人生のどこかで陥る可能性のある心の状態です。ここでは「自己憐憫」とは何か、その心理的構造と背景をひもといていきましょう。

「自己憐憫」という言葉の意味と定義

自己憐憫とは、自分の不遇や辛さに対して、過剰に同情し続けてしまう心理状態を指します。

英語では “self-pity” と表現され、「なぜ自分ばかりがこんな目に遭うのか」「誰も私を理解してくれない」といった思考が繰り返される傾向があります。

心理学的には、自己憐憫は「一次的な悲しみの感情が未処理のまま、思考のループに変化し、自我に固執した形で表出する」とされています。

自分を慰めようとする一種の防衛機制でありながら、それが過度になると「被害者意識」や「他者からの共感を強制するような態度」として現れることがあります。

自己憐憫と“悲劇のヒロイン(主人公)”化の心理

自己憐憫に陥る人は、心の中で“悲劇のヒロイン(あるいはヒーロー)”のような役割を演じていることがあります。

これは、自分の苦しみを他人にわかってほしい、理解してほしいという「承認欲求」の一形態です。

こうした人は無意識のうちに「私はこんなにも可哀想なんだ」と他者に訴えたり、「誰も助けてくれない」「私だけが不幸だ」といった世界観に閉じこもる傾向があります。

物語の主人公のように振る舞うことで、自分の存在価値を確認しようとするのです。

しかし、物語の中のヒロインとは異なり、現実の人間関係ではこのような態度が共感を呼ばず、むしろ「重たい」「かまってちゃん」と見なされることも少なくありません。

自己憐憫の人が敬遠される典型的なフレーズと態度

自己憐憫に支配されている人は、無意識に周囲から距離を取られてしまうことがあります。その原因となるのが、以下のような“重たさ”を感じさせる言動です。

典型的なフレーズ例:

「どうせ私なんて……」
「わかってくれる人なんて、誰もいない」
「こんなに頑張ってるのに、なんで認めてもらえないの?」
「みんなは恵まれてるのに、私は……」
「あのとき○○が裏切ったせいで、今も苦しいんだ」

典型的な態度例:

  •     助言を求めるが、実際には受け入れない
    アドバイスに対して→「でも、それって無理じゃない?」
    励ましに対して→「そういうの、響かないから」
  •     誰かが共感すると、さらに不幸話を重ねる
  •     感謝よりも不満や比較が多い
  •    会話の中心が常に「自分の苦しみ」になる

こうした言動は、周囲の人に「巻き込まれそう」「エネルギーを吸い取られる」と感じさせてしまい、結果的に人間関係の孤立を招くことがあります。

自己憐憫と自己肯定感・承認欲求との関係

自己憐憫は、自己肯定感の低さと深く関係しています。自己肯定感とは「ありのままの自分にOKを出せる感覚」です。この感覚が希薄だと、自分の存在価値を他者の評価や共感に依存しやすくなります。

すると、他者からの承認が得られなかったときに、「自分は見捨てられた」「不当な扱いを受けている」と感じ、自己憐憫へと傾いていきます。

また、現代ではSNSなどを通じて他人の評価が常に可視化されるため、相対的に「自分だけが劣っている」「誰も私を認めていない」という錯覚に陥りやすくなっています。

つまり、自己憐憫は「自分で自分を認められない心」が、「他人に認めてほしい」という願いにすり替わった状態とも言えます。そしてその願いが叶わないとき、心は「怒り」や「攻撃性」、あるいは「無力感」に変わっていくのです。

 

2. 自己憐憫が引き起こす心理的な悪循環

自己憐憫は、一見すると単なる“落ち込み”や“悲しみ”の延長に見えるかもしれません。

しかし実際には、それが心の中に定着してしまうと、やがて怒りや孤立を生み、さらに深い苦しみのスパイラルに陥ってしまうことがあります。

ここでは、その悪循環の構造と背景を詳しく見ていきます。

なぜ自己憐憫から抜け出せなくなるのか?

自己憐憫に陥ると、人は「現実の問題に立ち向かうこと」よりも「自分の苦しみを反芻すること」にエネルギーを費やし始めます。これは一種の心理的報酬があるからです。

たとえば「私は被害者だ」と感じるとき、責任を自分に引き受けなくてよくなり、苦しみの原因を“外側”に置くことができます。

また、他者からの同情や関心を引き出せれば、孤独感も一時的に和らぎます。

しかしこの状態が続くと、本人の無意識下では「自己憐憫=安心できる場所」になってしまい、そこから抜け出すことが怖くなってしまいます。

結果として、本当の意味での癒しや変化を拒む“心の麻痺状態”に陥ってしまうのです。

「誰もわかってくれない」から「攻撃的になる」までの流れ

自己憐憫の背景には、「他者からの共感や理解が欲しい」という強い願いがあります。しかし、それが何度も裏切られたり、期待通りに応えてもらえなかったとき、人は次のような感情の変化をたどります。

  •     孤独と悲しみ:「やっぱり誰もわかってくれない」
  •     無力感と怒り:「どうして私だけが…」
  •     攻撃性と皮肉:「あの人は何もわかってない」「どうせ偽善でしょ」

こうした流れの中で、「本当はわかってほしい」という思いが「わかってもらえないなら攻撃してやる」という歪んだ表現に変わるのです。

この時、怒りの矛先は自分以外の誰か(家族、職場、SNSの他人)に向けられることもあれば、最終的に「こんな自分なんていらない」という自己否定に転化することもあります。これが自己憐憫の恐ろしいところです。

自己憐憫と怒り・被害者意識・孤立の関係

自己憐憫が長引くと、心は次第に“被害者ポジション”にとどまり続けるようになります。すると、人間関係の中で以下のような問題が起こります。

  •     怒りの爆発:些細な言葉にも過敏に反応し、感情的になる
  •     被害者意識:「私はこんなに傷ついているのに、どうしてわかってくれないの?」
  •     孤立:周囲から「扱いにくい人」「一緒にいると疲れる人」と距離を置かれてしまう

自己憐憫に支配された心は、実は「誰かとつながりたい」と願っているのに、その表現方法がうまくいかず、逆に関係性を壊してしまいます。

スピリチュアルな視点では、これは「自己中心的な苦しみ」――つまり、自分の内面ばかりを見つめて、愛や真理とのつながりを見失った状態とされます。この状態から抜け出すには、「他者との比較」ではなく「本来の自分自身との対話」が必要です。

文学で見る自己憐憫の悲劇:『フランケンシュタイン』の怪物と博士

メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』は、単なるホラー小説ではなく、「自己憐憫と責任回避」が生み出す破滅を描いた深い心理劇です。

物語に登場する怪物は、孤独や拒絶に苦しみ、「なぜ私だけがこのように生まれてきたのか」と自分の存在を呪います。その苦しみはやがて、他者への怒りと復讐へと変わっていきます。彼の自己憐憫は、「どうせ誰にも理解されない」という思い込みを強め、やがて加害的な選択を正当化する材料になっていくのです。

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実は「フランケンシュタイン」は博士の名前で、怪物には名前がありません

一方で、彼を創造したヴィクター・フランケンシュタイン博士もまた、別の形で自己憐憫に陥っています。彼は怪物の存在が周囲に及ぼす影響を見て、「なんて恐ろしいものを作ってしまったんだ」と後悔しますが、その後は責任を取ろうとはせず、逃げ続けます。そしてやがて、自らが怪物に復讐される被害者だと感じるようになります。

つまり博士は、自分が加害者であるという本質を見ようとせず、被害者ポジションに“居ついて”しまうのです。これは心理学で言う「責任回避型の自己憐憫」とも言えるでしょう。

「私はあんな怪物を望んだわけではなかった。悪いのは怪物だ」という思考が彼の中に定着していく。

このように、『フランケンシュタイン』には自己憐憫に囚われた二人の人物――怪物と博士――が登場し、それぞれ異なる形で怒りや孤立を深めていく構図が描かれています。そしてこの二人は、結局最後まで“互いの声”を理解し合うことができません。

この物語は、「わかってほしい」という願いと、「わかってもらえない苦しみ」にどう向き合うかという問いを、今なお私たちに投げかけ続けています。

 

3. よくある相談・悩みの事例から見る自己憐憫

自己憐憫は、「特別な誰か」だけの感情ではありません。多くの場合、日常的な人間関係の中で、ふとした瞬間に芽生え、私たちの内面に静かに根を張っていきます。

この章では、よくある悩みや相談の事例を通して、自己憐憫のメカニズムとその影響を具体的に見ていきましょう。

上司・同僚・親・恋人から理解されないとき

「こんなに頑張っているのに、わかってもらえない」
「どうして私の気持ちを察してくれないの?」

こうした言葉は、自己憐憫に陥る典型的な出発点です。特に信頼している相手や、近しい関係にある人にこそ期待が大きくなり、「理解されない」ことが強い痛みになります。

たとえば、職場での努力が評価されず、上司から理不尽な扱いを受けたとき。「自分だけ損をしている」と感じると、被害者意識が強まります。同様に、親に気持ちを受け止めてもらえなかった過去を思い出すと、「私は誰にも愛されない存在だ」と無意識に思い込みがちです。

恋人関係でも、思い通りのリアクションをしてくれない相手に対し、「私ばかりが我慢している」と感じ始めると、愛情が失望や怒りへと変わることがあります。

本質的には、「わかってほしい」「大切にしてほしい」という深い願いがあるのですが、それが満たされないとき、“誰もわかってくれない”という物語を自分の中で強化してしまうのです。

SNS時代に加速する“見捨てられ感”と自己憐憫

SNSは、つながりを求める現代人にとって欠かせないツールである一方で、「自己憐憫の温床」にもなり得ます。

  • 自分の投稿には“いいね”が少ない
  • 他人のリア充投稿ばかりが目に入る
  • 既読スルーが続いて「嫌われたかも」と不安になる

こうした状況は、「私は価値がないのかもしれない」という無意識の自己評価を刺激します。

実際の人間関係では「忙しかった」「気づかなかった」など理由があるかもしれませんが、SNS上では曖昧なまま放置されやすいため、「見捨てられた」と感じる心の隙に、自己憐憫が入り込みやすくなります。

また、「わたしってかわいそうでしょ?」という“同情を引く投稿”を繰り返すことで、一時的な反応を得ても、本質的な孤独感や虚無感はむしろ深まる傾向にあります。

 

4. 聖書に見る「自己憐憫」とその行方

自己憐憫という心の闇は、現代の悩みに限ったものではありません。聖書の登場人物たちもまた、理解されない苦しみ、怒り、孤独、虚しさの中で、しばしば自己憐憫の誘惑に直面しています。

けれども聖書は、単に「自己憐憫はよくない」と道徳的に断罪するのではなく、その心の内側に深く寄り添い、そこからの回復と癒しの道を示しています。この章では、代表的な三つの視点から、自己憐憫とその行方を探ります。

カインとアベル:なぜカインは怒りに飲み込まれたのか?

創世記4章に登場するカインとアベルの物語は、人間の内にある「比較」と「拒絶される痛み」、そしてそれに続く自己憐憫の連鎖を象徴しています。

神にささげ物をした二人。アベルの献げ物は受け入れられたのに、カインのものはそうではなかった。その瞬間、カインの心に生まれたのは、怒りと悲しみでした。

神はそんな彼にこう語ります。

なぜ怒るのか。顔を伏せるのか。もし正しいことをしているなら、顔を上げられるはずだ。しかし、正しいことをしていないなら、罪が戸口に待ち伏せている。(創世記4:6-7)

この言葉は、「その怒りと落ち込みに飲まれるな。顔を上げよ」という呼びかけと希望でした。しかし、カインは顔を上げず、自分の中に沸き起こる「受け入れられなかった悲しみ」を処理しきれず、それを弟アベルへの妬みや怒りに変えてしまいます。

ここにあるのは、神に愛されなかった「自分は見捨てられた」という痛みに対する自己憐憫の芽生えと、自分とは逆に神に愛されているアベルへの比較・被害意識・攻撃性へと変質していくプロセスです。

カインの悲劇は、「神のまなざし」に背を向け、自分の痛みに閉じこもったところにありました。

コヘレトの書:虚しさと孤独を超える智慧

『コヘレトの書(伝道の書)』は、旧約聖書の中でも特異な響きをもつ書です。そこには、人生の喜びや成功、知恵の追求すらも「空(くう)」――つまり、儚く、つかの間で、意味のないものだとする言葉が繰り返し綴られています。

空の空、空の空。すべては空である。(コヘレト1:2)

この言葉を残した著者については諸説ありますが、古くからイスラエルの王ソロモンがその執筆者であるとする伝承が存在します。

ソロモンは、ダビデ王の子として生まれ、若くして神から「知恵」を与えられた人物です。彼はその知恵によって国を治め、国際的な名声と莫大な富、壮麗な宮殿や神殿を築き、まさに「この世の栄光」を極めた王でした。

しかし晩年、彼は異国の妻たちに影響されて偶像礼拝へと傾き、神との関係を裏切る生き方を選んでしまいます。その結果、心は分裂し、堕落へと向かいました。

『コヘレトの書』は、そんな晩年のソロモンが、かつて自らが求め、得てきたすべてのもの――富、快楽、知恵、業績――を振り返りながら、それらが真の満足を与えるものではなかったことを告白しているとも読めるのです。

私は、太陽の下でなされるすべてのわざを見た。見よ、それはすべて空しく、風を追うようなものだ。(コヘレト1:14)

ここには、自己憐憫と似た構造があります。つまり、「人間の努力は虚しく、最終的には誰にも理解されず、すべてが消えていく」という絶望。しかし、これは単なる投げやりな諦観ではありません。

この世のすべてを手に入れた者が、それでもなお「満たされなかった」と語るからこそ、人がどこに生きる意味を見出すべきかという問いが、いっそう鋭く響くのです。

そして最後に、著者はこう結論づけます。

神を畏れよ。神の命令を守れ。これこそ、人間にとってすべてである。(コヘレト12:13)

ここに示されているのは、人間の真の価値と存在の根拠は、神との関係にこそあるという智慧です。

この視点に立つとき、たとえ人から理解されず、人生が思い通りに進まなくても、「空しい」と感じる根底の痛みに、初めて光が差し込みます。

それは、「空しさ」に飲み込まれて自己憐憫に沈んでいくのではなく、むしろそれを通してより深い“信頼とつながり”へと向かう入り口となるのです。

神のまなざしと“ひとりで泣いている心”の救い

自己憐憫に沈むとき、多くの人がこう感じます。

「誰も私の気持ちをわかってくれない」
「この苦しみを見ている人は誰もいない」

この「ひとりで泣く心」こそ、自己憐憫が最も深く根を張る場所です。誰かに見てほしかった。わかってほしかった。けれど誰も見てくれなかった。だから、自分で自分を慰めるように、憐れむ。——このループが、内側から人を弱らせていくのです。

しかし聖書は、「神は見ておられる」という視点を差し出します。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。(詩編34:18)

この詩編のことばは、誰にも見えない“心の涙”を、神だけは見ておられるという慰めです。

このメッセージを象徴する人物として、旧約聖書のハンナが挙げられます。

ハンナは、子を授からなかった女性。夫のもう一人の妻から日常的にあざけられ、心は張り裂けるような思いでした。神殿に行ったある日、ハンナは泣きながら、しかし声を出さずに、ただ唇を動かして祈っていました。その姿を見た祭司エリは、最初は酔っていると勘違いします。それほどに彼女の祈りは痛切で、静かで、誰にも届かないように見えたのです。

しかし、その祈りは神に届いていました。

エリがハンナに言った。『安心してお帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。』…主は彼女を覚えておられた。(サムエル記上1:17〜19)

この「覚えておられた」という表現は、神が彼女の存在と祈りを忘れていなかったことを示します。

ハンナの涙、声なき叫び、その孤独な心の深みに、神は確かに目を留め、こたえてくださったのです。

 

5. 自己憐憫を手放すためのスピリチュアルな視点

自己憐憫は、心理的な視点だけでは十分に扱いきれない、魂の奥深くに関わるテーマです。

人は、自分の力では抜け出せないほど深い孤独や虚無感を抱えることがあります。そんなとき、スピリチュアルや霊的な視点は、より深い癒しと解放の道を指し示します。

人間の不安定な承認より揺るがない承認を得る

人は本能的に「誰かに受け入れられたい」「価値ある存在として見てほしい」と願っています。

それ自体は自然な心の動きですが、その拠り所が人間の承認だけに偏っていると、私たちは非常に不安定になります。

なぜなら、人間の承認はいつも変わるからです。

相手の気分や環境、利害関係、トレンドさえも影響し、昨日の「大好き」は今日の「興味ない」になる。

SNSでの「いいね」が減った、メッセージの返信が来ない、誰かの視線が冷たく感じた——

それだけで、私たちは「自分には価値がない」とまで思い詰めてしまうことがあります。

そんな私たちに、聖書はまったく異なる種類の承認を差し出します。

私は確信しています。死も命も、天使も支配者も、現在のことも未来のことも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。(ローマ人への手紙 8:38-39)

この言葉は、どんな状況でも揺るがない「神の愛と承認」があることを宣言しています。

誰かの態度に振り回されても、孤独に打ちひしがれても、神は決してあなたを見捨てない。

「あなたには価値がある」「あなたを愛している」と語りかける神の声は、沈黙の中にも響きます。

自己憐憫は、「私は価値がない」「誰も私を愛していない」という結論から始まります。

けれど、神の視点から見たとき、それは根本的に誤った前提に立っています。

人間の気まぐれな評価から自由になり、変わることのない愛に根ざすとき、私たちは深い安心と回復を得ることができるのです。

悪魔(サタン)は自己憐憫の考えを脳に入れる

聖書は、霊的な存在としての「サタン(悪魔)」の働きを語ります。

そして興味深いことに、サタンは直接人を傷つけるのではなく、思いを通じて人の心にささやきかける存在として描かれます。

たとえば、こんな思いがふと浮かぶことはありませんか?

「私はどうせ理解されない」
「もう誰も信じられない」
「何もかも無意味だ」
「ほら、お前は誰からも必要とされていない」

これらの思考は、自分の心の中から出てきたのではなく、敵(サタン)があなたの霊の耳元でささやいている場合があります。

サタンは、人が神から目をそらし、「自分の苦しみだけに意識を集中する」ように仕向けてきます。まさに自己憐憫へと導くのです。

イエス・キリストはこう言いました。

あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。(ペテロの手紙第一 5:8)

この“声”に気づき、「それを信じない」ことが、自己憐憫から自由になる第一歩です。

敵は、真理ではなく“嘘”を使って心をゆがめようとするのです。

 

自分を憐れむ代わりに、愛されていると信じる

自己憐憫は、孤独な心のささやかな防衛反応です。

でも、そこにとどまり続けると、自分自身が壊れてしまいます。

人の承認を超える“揺るがない愛”、

思考の奥にある“偽りの声”への気づき、

そして、“天からの癒し”に心を開くこと。

それらを受け入れるとき、私たちは被害者ではなく、癒された者・導かれる者として、新たな歩みを始めることができます。

 

まとめ:この記事の重要ポイント7選

この記事では、心理学・文学・聖書の観点から、自己憐憫の正体とその行方を見つめてきました。

自己憐憫という感情は、誰の心にもひそむものです。理解されない痛み、承認されない苦しみ、そして孤独。けれど、そこにとどまり続けると、心はますます閉ざされていきます。

KEI

この記事で特に重要なポイントを以下にまとめました
  1. 自己憐憫とは、自分の不遇に同情し続ける心理状態であり、苦しみの“物語”の中で自分を主人公にしてしまうことで悪循環が生まれる。
  2. 典型的なフレーズや態度(「どうせ私なんて」「わかってくれない」など)は、人間関係に距離を生みやすい。
  3. 自己憐憫は「怒り」や「被害者意識」、孤立感と結びつき、攻撃的な言動に転じることもある。
  4. 『フランケンシュタイン』に登場する怪物も博士も、それぞれ自己憐憫に囚われた存在として描かれている。
  5. SNS時代の「見捨てられ感」は自己憐憫を助長し、人間関係の摩耗や心の疲弊を加速させている。
  6. 聖書では、カインやハンナのように、「神のまなざし」が心の回復と再生の鍵になることが示されている。
  7. 人間の承認よりも揺るがない神の承認(例:ローマ8:38–39)に目を向け、聖霊の癒しと導きによって生きることで、自己憐憫を手放せる道が開ける。

最後に、この記事に合わせて『自己憐憫』をテーマに制作したオリジナル楽曲と、ショートストーリーを紹介します。ご自身の心と向き合いながらリラックスしてお楽しみください。

 

楽曲『🪽 Fallen(堕天)』元エンジェルの厨二ソング

最後に伝えたのは、人間の承認を超えた、「神のまなざし」でした。

けれど――それを知っても、なお心は揺れることがあるでしょう。癒されない傷、焼きついた孤独、そして「誰かに理解されたい」という飢え。ときに私たちは、その痛みを抱えたまま、闇のほうへ手を伸ばしてしまう。

次に紹介する楽曲は、そんなふうに“堕ちてゆく自分”を表現しました――良かったら聞いてみてください。

『🪽 Fallen(堕天)』
 
 

もう戻れない — I was once the light
でも堕ちたんじゃない…

「裁くのなら 心も奪ってくれよ?」
逃げ出した — Eden
天から — I’m the fallen
なぜ与えたのか このつばさを
地上には快楽の taste
与えよう堕落の gift
僕を — Love me(愛してよ)
worship me(崇拝してよ)

もう充分に味わった — my pain
もう生きたくない — but dead inside
この Forbidden な愛

「裁くのなら 魂も奪ってくれよ?」
逃げ出した — Eden
天から — I’m the fallen
なぜ与えたのか このちからを
地上には暴力と chaos
与えよう虚飾の makeup
僕を — Love me(愛してよ)
worship me(崇拝してよ)

もう充分に味わった — my pain
もう生きたくない — but dead inside
この Forbidden な愛

I’m the fallen
still, I’m whispering

あの日、目を奪われた
焦がれた desire
僕は screaming in the fire
癒せない my scar
どうか憐れんでくれないか?
The devil is a liar
あなたが沈黙するのなら
まだ奪い続けよう

もう充分に味わった — my pain
もう生きたくない — but dead inside
この Forbidden な愛

もう戻れない — I was once the light
もう二度と帰れない — Eden
でも堕ちたんじゃない…
“ I’ll fall again… ”

ストーリー『堕落のgift』~自己憐憫とEdenからの追放編~

場所:大学構内・映像メディアセンター

登場人物:
光(苦悩を“比喩”で語りがちな哲学男子)
未來(過去に芸能界を干された元アイドル)
千沙(映画の感想は一言で簡潔に)
天使K(人事評価を上げたい天界人)
堕天使A(“闇ルート”で幸せを売る元天使)


【シーン1:映画鑑賞】

(去年話題になったリメイク映画『シン・フランケンシュタイン』を観終えたところ)

千沙:「怪物が切ない……」

:「怪物に罪を押しつけた博士ヤバい……
あれ、まさに自己憐憫って感じだったね」

(エンドロールとともに主題歌『🪽 Fallen(堕天)』が流れる)

🎵 もう戻れない — I was once the light~

未來:「この曲……実は、オファーきてたんだ。私に」

千沙&光:「えっ!?マジで!?」

未來(うつむいて):「でも断った。あの曲を歌ったら、“自分”が壊れる気がして……
……それで、たぶん干された」

(室内の空気が、どこか重くなる)

 

【シーン2:天使と元天使】

(突然、部屋の照明が落ちたかのように、影が広がる)

堕天使A(登場しながら笑顔で):「Edenから追放された人間たちよ……」

光(モノローグ):「え?厨二?」

堕天使A:「与えよう……🎵 堕落の gift~

未來(心の声):「こいつ……どこかで会った気がする……」

(そこへ輝く光とともに、天使Kがビシィィィィッと登場)

天使K(全力で指差し):「ちょっと待てい!!」

堕天使A(舌打ち):「チッ、お前か……」

天使K(ヒーロー気取り):「天から追放された悪魔よ!この者たちに手を出すな!」

千沙(モノローグ):「なんか今日は……芝居がかってるな」

 

【シーン3:過去の邂逅】

堕天使A:「Kよ、邪魔するな。元同僚だろ?」

天使K:「貴様と同類にされてたまるか!」

千沙:「誰?」

天使K:「元・天使だ。だが掟を破って、天界をクビにされた…。しかも、それで神を逆恨みしているんだ」

堕天使A:「掟を破ってクビ?人間が欲しがるものを与えているだけだ……それに、自分の欲を満たしただけだ」

天使K:「――問答無用!聖霊の剣で成敗してくれる!」

(Aは闇に溶けて去る)

光&千沙(拍手):「パチパチパチ!Kさん、今日ちょっとかっこよかった!」

未來:「……あいつ、私に“あの曲”を歌えば、成功させてやるって言ってきた」

天使K:「誘惑して闇に堕とすのが仕事だからな」

千沙:「なんでそんなことするの?」

 

【シーン4:星5評価と堕天の言い訳】

(再び、闇の奥から堕天使Aの声が響く)

堕天使A:「神が人間をどこまでも愛しているのが気に入らなかったのさ……」

光(モノローグ):「やっぱり、この声……どこかで聞いた気がする」

千沙:「それで神を逆恨み?」

堕天使A:「🎵 僕を — Love me worship me~

堕天使A:「俺だって……ほんとは愛されたかったんだよ。でも愛してもらえずクビにまでされるなんて……俺はなんて可哀そうなんだ」

(そのまま、闇の中に消えていく)

千沙:「自己憐憫って……なんか怖いな」

未來(小声で):「……私あの頃、闇落ちしかけてた……」

(ふと、天使Kがスマホをいじりながらブツブツ)

天使K:「……はぁ、あいつのせいで評価低すぎ……。どれだけ頑張ってもいつも邪魔されるし……。日本人は頑なすぎるし……」

:「めっちゃグチってる……」

千沙:「……っていうか、Kさん、今日いつもより張り切ってたよね?」

光:「確かに。ヒーローみたいだった」

天使K(目が泳ぎながら):「……べ、別に!?いつも通りだし!?」

千沙:「なんかあった?」

天使K(真面目に):「……来期から、人間側のレビューが人事評価に入るんだ……テスト運用が始まった」

光:「え、私たちの評価が……?」

未來:「星いくつとか?」

天使K(真面目に):「そうだ……今までは天界からの指標だけだったのに……“人間側の満足度”とか……」

千沙:「評価低かったし、そりゃ張り切らないとね……」

天使K(闇落ち):「誰も私の努力をわかってくれないんだ……せっかく光の波動を広げても、堕天使が邪魔するし……」

(未來がくすっと笑う)

未來:「私があの曲を歌わないように助けてくれてたのも、Kさんだよね?」

未來:「今日も助けられた気がするよ。☆5評価つけるね」

天使K(感涙):「ほんと!?嬉しい!!☆5いただきましたぁああああ!!!!!」

(Kが喜びの舞を踊る中、光・千沙・未來はすこし呆れつつも笑っていた)

(舞いながら天に帰っていくK)

──完──