劣等感ゆえに優越感に浸りたい。心の闇を払おう

世の中には様々な欲を刺激されるものが溢れていて、それらに惑わされないように気をつけつつも、確実に影響を受けてしまっている自分がいます。

たくさんのお金を持っていそうな人を見て、あまりお金を持っていない自分に劣等感を感じる。仕事で大きな成功をしている人を見て、成功していない自分に劣等感を感じる。

わたしが目標にしていた出版を何冊も実現している人を見て、一冊も本を出せていない自分に劣等感を感じる。たくさんのコメントやいいねがついている人を見て、あまりついていない自分に劣等感を感じる。

などなど、様々なことに劣等感を感じてしまうのですが、さらにその劣等感を受け入れずにごまかしている自分がいるのです。素直に受け入れればいいのですが、それもできないほど心がねじ曲がった性格なので、本当にメンドクサイ奴だなと我ながら思います。

KEI

今日は、わたしの心の闇を暴露してみます。

他人と比較しないのは本当に有効か

劣等感を感じているのは心がつらいので、例えば「他人と比較せず、過去の自分と比較する」などの考え方が、ビジネス書や自己啓発の世界では推奨されています。

これは確かに効果があると思うのですが、私たちの周りには毎日のように、自分と他人を比べて劣等感を抱くような情報が溢れています。

それらに触れながら、毎回のように「他人と比較しない・・他人と比較しない・・」と、心の中で唱えて考え方のフレームを変えても、やっぱり心のどこかで無理が生じていると思うのです。

目の前にあるものから目をそむけて、心に感じているものを感じないように、自分を偽っていると、短期的には効果があっても、長期的に見ると問題が増えてしまうケースもあるのではないでしょうか。

この問題を放置したまま、チリも積もれば山となるように大きくしてしまうと、いつの間にか、わたしのようなメンドクサイ人物になってしまい、周りの人からも嫌われて敬遠されてしまい、更には運までも悪くなってしまう危険性をはらんでいます。

 

ため込んだ劣等感が噴出するきっかけ

例えば、仕事で成功をおさめた。人からすごいと思われるような大金を稼げるようになった。誰もがひれ伏すような実績や肩書きを手に入れた。

そんな時が、これまでため込んだ劣等感が噴出してくるきっかけとなります。そんな時に人は、これまでの劣等感を穴埋めするかのように優越感に浸り始めてしまうのです。

KEI

わたしは特にそうです・・・

わたしはこれまで、独立起業してからこれといって大きな実績は出せていなくて、約10年ほど命からがらサバイバルしてきたという感じなのですが、ここ最近ビジネス書を出版する機会を与えていただけることになりました。

とても嬉しくて感謝の気持ちが湧き上がり、喜びとともに執筆の仕事を終えることができました。しかし、しばらくしてその感謝や喜びが落ち着いてくると、自分の中から何か気持ちの悪い優越感のような気持ちが湧いてくるようになってしまったのです。

怖いことに、そんな感情が噴出してきて初めて、劣等感をため込んでいたことをかすかに自覚したのですが、それまで自分をごまかしてきたので、自分で気づくことができなくなってしまっていました。

心の中にあるのに闇に隠して見えないようにしてきた、まさに心の闇です。

 

劣等感の裏返しの優越感に要注意

本当にすごい人は、優越感に浸っているような人ではないことは、誰しも気づいていると思います。

もしかしたら、その優越感ゆえに尊大で高慢な態度で人と接していて、相手はイヤな気持ちになっていたとしても、それをいちいち指摘してくれることはないので、本人は気づかないままであることが多いでしょう。

相手は「イヤな感じの奴だなぁ」と思いつつも、褒めて持ち上げておいた方がビジネス的な利得があったり、わざわざ指摘して敵対関係になってもメリットはないので、表向きには良い対応をしながら心の距離が離れていくことになると思います。

これは本当に恐ろしいです。人に嫌な思いをさせないためにも、自分が嫌われて損をしないためにも、このような優越感や劣等感は、今すぐにでも解決しておきたいです。

また、わたしの念願だった出版が実現とは言っても、正確には執筆作業が終わっただけでまだ発売すらしていないのに、そんな優越感が出てくる「小物さ」に、自分でもがっかりします(笑)

KEI

ほんまにしょぼい奴ですね

しかも、この出版の願いが叶ったのは、神様へ祈り求めたことによるものでした。

 

すぐに感謝を忘れる愚かな生き物

わたしは、あらゆる苦しみに追い詰められて絶望してからというもの、人生を自分の力で何とかしようとするのをあきらめて、神様に祈るようになりました。

そうすることで、苦しみの原因が取りのぞかれて絶望的な状態から回復したり、幼少期からの心の悩みも取りのぞかれ、さらにここ数年の目標だった出版を実現させていただきました。

しかも、執筆中も明け方の時間に起きて、お祈りをしてから執筆作業をしていたからこそ、300ページ超の大変な執筆作業を楽しくやり遂げることができたのです。

それなのに、おのれのしょぼい心の渇望を埋めるためにそれを利用してしまっているのです。自分の力で成し遂げたことでもないのに、自分がスゴイと思われたくて、アピール材料として使ってしまうという、何とも罰当たりで恩知らずな愚か者であることに気づいて愕然としました。

こんなことでは、人から嫌われるだけでなく、神様からも嫌われて運が悪くなってしまうことは間違いないでしょう・・・。

 

神様に愛される人の考え方

話は変わりますが、神様は人のことを深く愛してくださっています。

それを人に理解させるために働きかけて、祈りを叶えてあげることがあるそうです。そうして、わたしたちは神様が祈りを聞いていることがわかり、その存在を認識することができるようになります。

目には見えませんが、幼い子どもや愛するペットを見守るような気持ちで、わたしたちを見守って深い愛を与えてくださっているのです。それに気づかされたのは、以下のような出来事があったからでした。

わたしはペットのオカメインコ(ぽぽ♀)を約15年飼っているのですが、2023年の年末年始にものすごく弱って、死んでしまうのではないかというくらいの状態になってしまい、毎日ずっとそばにいて世話をし続けました。

外に出かける用事があった時もいつも心配して、家に帰るまで生きてくれているだろうかと、不安になって急ぎ足で帰りました。

ぽぽさんは10年くらい前に足が折れて変形してしまったため、普通のインコのように止まり木につかまったり歩いたりするのが難しいので、以前から鳥かごのレイアウトなども工夫していましたが、弱っている様子を見て、もっと快適に休めるように、更にレイアウトを工夫してみました。

しかし、色々と考え抜いて工夫しても、インコはとても臆病な生き物なので、慣れ親しんだレイアウトじゃないと怖がってしまいます。あれこれやっても結局ほとんど元の状態に戻したり、なんとかしてあげたいけど怖がらせてしまうし、何をしてあげたらいいのかわからず悪戦苦闘しながら途方にくれました。

その数か月前から、わたしは明け方の時間に起きて、神様にお祈りをすることを毎日の習慣にしようと取り組んでいたので、いつものように明け方に祈ります。

「苦しそうにしているぽぽさんを癒してあげてください。」

「わたしが愛するこの子を救ってあげてください。」と毎日真剣に祈りをささげました。

そうすると「わたしたちも、あなたたち人間をそのように思っていますよ。」というメッセージが聞こえてきたのです。

 

なぜ、祈りを聞いてくれるのか?

わたしは以下のように神様に祈ったことがありました。

「神様は、わたしたち人間のことを、どのように思っているのか教えてください。」

なぜ、わたしたちの祈りを聞いて助けてくれるのか?なぜ、わたしたちに働きかけて来てくれるのか?聖書や御言葉で厳しくわたしたちを戒められるのはなぜなのか?このような疑問を解決するために、神様の心情を理解したくて祈り求めました。

しばらくすると、ぽぽさんが弱ってしまうということが起こり、大切な存在がこの世からいなくなってしまうのではないかと怖くなって、毎日懸命に世話をしてどんな時も絶えず心を向けて、自分がどれほど愛していたのかを自覚するように導かれました。

そして、そのタイミングで「わたしたちも、あなたたち人間をそのように思っていますよ。」と言われたのです。

KEI

わたしはそれに心を打たれ、しばらく泣いていました。

さらに、別の日に頂いた補足のメッセージは、このようなものでした。

 

いつかのメリークリスマス

いつまでも 手をつないでいられるような気がしていた
何もかもがきらめいて がむしゃらに夢を追いかけた
君がいなくなることを はじめて怖いと思った
人を愛するということに 気がついたいつかのメリークリスマス

(作詞:稲葉浩志、作曲:松本孝弘、「いつかのメリークリスマス」から引用)

明け方に起きると、B’zの懐かしい曲が頭の中で流れていて「なんで唐突に、この曲が頭の中にながれてくるんかな?」と疑問に思いながら、「たしか、こんな歌だったなぁ」と心の中で歌詞を追いかけていくと

人を愛するということに 気がついた

 

「わたしたちも、あなたたち人間をそのように思っていますよ。」というメッセージをもらった日を確認すると12月25日でした。わたしは、その日「神様が、人を愛するということに気がついた」のです。

「それで朝からB’zやったんか!」と疑問が解消して、愛してくださっていることに感謝の気持ちがあふれてきました。そしてまた、何日か明け方に祈り続けていると、ぽぽさんが元気になってきました。

良かった!本当に良かった。

けど、神様からのメッセージになかなか気づけないわたしのせいで、ぽぽさんが犠牲になってくれたのかもしれないので、申し訳ない気持ちもあります。これからはもっと早く気づけるようになりたい。

ちなみに、この記念に「いつかのメリークリスマス」で替え歌を作ってみたのですが、著作権に抵触する恐れがあるためブログには載せられず残念です。

 

神様は愛ゆえにわたしたちを導き、時に願いを叶えたり苦難を与えて鍛えたり、厳しい言葉や罰も与えます。そして、心の中を精密に見極めて、闇の中に隠していることまでも全て見通してしまわれます。

わたしがこれまで、知らず知らずのうちにため込んでしまった膿のような劣等感を適切に処理して、愛ゆえに願いを叶えてもらった感謝の気持ちを忘れないように綴りました。自分のしょぼい心の闇を払っていきたいと思います。

KEI

最後までお読みくださりありがとうございます。

もしよかったら、もう一つ読んでみてください。

承認欲求を捨てよ。人生の深い苦しみから解放されたこと